性についての深い考察などもとより出来ぬ セックスで1分しか持たないおのれですが、村主章枝さんがヌード写真集を出したのだそうで驚いた。「かたぎ」の女でこれほど世間に知られた知名度の高い女性がヌードになったなんていままでなかったのではないか。
改めて興味を持ちます。脱ぐか脱がないかの倫理観は変化したのだろうか。
週刊誌的には「昨今ヌード写真集を出すことはなんら珍しいことではありませんが、まだまだ世間的には「借金か?」「男か?」「宗教か?」などといらぬ邪推をされる現実(全ては辺見マリのせい)。しかも日本を代表するトップ選手だったわけですから、マスコミは色めき立ちました【文春】」あたりが考察の相場でしょう。
もちろん、文春も彼女の内面に触れており、
「しかし村主さんの写真集は「スーパームーンの夜に銀色の光が降り注ぐ中、『月光』の世界観を写真で表現する」(インスタグラムより)という非常に崇高なもので、一部報道にあった「極貧生活」「ホスト通い」などの理由は完全否定。全ては「スーパームーンの下で」自分が大切にしてきたプログラム「『月光』を踊る」という芸術的必然性であったそう。」
とまとめています。
村主章枝さんご本人は、ツイッターで
「女性に見ていただいて、美しいと言ってもらえたら一番嬉しいし、そういっていただきたく頑張りました。200点満点は、チームが本当に素晴らしく、私の実力では、こんな作品になりませんでした」と語っています。
でもそれってすべてうわづらなぞっただけと違いますか。「芸術性」を絡めればなんでも崇高な「アート」になってしまう。
くだんの文春女性フリーランスライターも、
「現役時代、彼女の高い芸術性も「採点競技」という観点で見れば浅田真央選手のトリプル・アクセルにいともあっさり叩きのめされてきた村主さん。そのルサンチマンをぶつけたのが今回の芸術ヌードだったのかな……。 若い頃のジャンプ力を失った女が、見せたい、見られたい願望を「社会からの要請」として果たせる場所、それが芸術ヌードだった。」
と突っ込んでおります。
ルサンチマンに駆られて女が脱ぐことはあるのでしょうが、。村主章枝さんがそうだというには無理があるように思います。見せたい、見られたい女の願望だったのでしょうか。
男と女の劣情をたっぷり誘うふくろ綴じ写真集 → 買いたい 芸術だもん(笑)